その531

 理性界では思考されるが、世界そのものがそのように運動しているのではない。世界そのものがそのように運動していることとはまったく決別した場において自在するのが理性界ではないか。世界のことについて思考するその運動が内在される理性界は、世界それ自体の運動のうちにあるとは考え難い、いや、世界の一部として実在する理性界の運動だが、それは世界の流れのうちにいかに組み込まれているのか。一切は流れている。理性界も然り。理性界は他とまったく関係を持つことなく実在しているのではないか。それゆえに、自由に考えることができる。さまざまな可能性について思いを巡らせるとき、そこで思考されることそれ自体の物理的な現象はいかに起こっているのか。思考の対象である世界はそのように動いていないこともありうる。世界の運動に沿っていないことが思考されるとき、そのプロセスは架空の世界にある。各個人の頭の中にだけあることがある。具体的に表立って現れないこともある。思考されたプロセスの痕跡だけは確かに世界の記憶となった。当人以外の誰にも知られることない思考内容があったとしても、世界それ自体はその痕跡を記憶として認識しているのか。そのときの世界とは何を意味するのか。単に、存在のすべてではないか。あるだけあるものがある。そのうちに理性界も含まれる。世界をもとに思考されたそのプロセスのすべてが誰にも明らかではない世界という全体のうちに含まれる。誰も知らないことも世界は知っている。世界のすべてを知ることは当然できない。できないが、世界はそのすべてとしてある。