その521

 私たちはいつか認識の外側にでることができるか。どこまでも認識を拡張していくことの意味とは何か。拡張していった認識はいつか認識外と繋がるとのか。認識外とつながった認識は認識の拡張を意味するに過ぎないのか。認識外の認識とつながった認識はたんに認識内における認識にすぎないのではないか。認識を拡張していくこととは、認識内に認識外を含み込んでいこうとしている、そういった運動として、認識は動いているのではないか。認識はその実存的に、認識外をつねに含んでいると考えられる。認識は動的であり、つねに何かしら「新しいことと繋がろうとしている」はずだ。この意味で、認識はつねに認識外を含んでいると考えられる。思考する精神のうちに実在する認識は、それ自体がすべて鮮明なのではない。明白に分かっていないことも認識に含まれる。そうかもしれないことをそうかもしれないと考えていることもまた認識のうちにある。個人の実存において、考えていたことがいつしか現実になる。つまり、その考えていたことが世界のあり方そのものであることを知るのである。考えていることは、そのすべてが認識内にある。正しいか間違っているか、それは関係がない。考えている内容のすべてが認識内にある。認識外とはつまり、考えたこともないことを意味する。一切考えたことのないことが認識外存在だ。考えて、その通りがどうか分からないことは認識内にある。