その543

 何かが何かになることがある。その原因はつねに複数ある。原因複数性が事物の根源にある。原因が単一であることなど、ありえないのではないか。何かがあるとき、それは何かが起こっていることを意味する。何が起こっているか、それ自体は単一のことではない。りんごがあるということは単にりんごがあるということではない。りんごがあることがいかなることか。ただ一つのりんごがあることそれ自体がいくつもの原因を秘めている。もっとも、原因が単一か複数かを決定づけるのは、ロゴスであって、決して現実の総体ではない。そもそも、一つのこととは何か。単一のロゴスは実際に単一なのか。ロゴスが単一性を示したとき、その実質は単一なのか。この場合、実質とは何か。ただ在る物事が実質的に単一であるというとき、その意味は何か。単一が単一である意味とは何か。認識内おいて単一であることとは何か。それが単一であることの意味とは、それがひとつのことであると理解される。それは、言葉でひとつのことのように述べられること。ひとつのことがひとつのことのように述べられたからといっても、実際にそれがひとつのことなのかどうかは定かではない。ひとつのことが実在するのかどうか。実在するとしても、本当なのかどうか。ひとつのことはひとつのこととして実在するとはいかなることか。それは不可能な実在を意味しないか。ひとつのこととして実在する何かはつねに他と関係しているのだから、何かがあることはつねに複数性によるのではないか。それが存在するものすべてかどうか、それは定かではない。というか、すべてと関わりうるというか、何か単一なものが存在し、それが関わりうる何かには明白な領域があるのではないか。まず先に何かがあることを措定したとき、それが関わりうることが世界全体というのは過言ではないか。何かがあって、それが関わろうとするその運動がある。関係性は運動である。動いていくから関係性が生じる。動いているものとはそのまま関係性である。動いていくものすべては関係性を模索していく。ある認識対象にある何かが動いている。それはそのまま関係性それ自体をこの世界内に表現していく。何かがあることは、その運動とともにこの世界に関係性を表現している。それは何かという単一さを原因にしている。認識内における単一さがそのまま実質的に単一であるというのではない。認識をとっぱらったとき、単一の事象が実在するのかどうか。単一さは単に、認識が生み出すものであり、存在の実質ではないのではないか。何かに焦点を絞ったとしてもけして単一であるということなど現れないのではないか。何かがあることそれ自体が原因であるとき、その根拠はつねに複数ではないか。それゆえに運動する。運動するからある。