その524

  カオスはカオスのまま認識されない。カオスとは、どうあったとしても、私たちの認識内においてのカオスでしかない。認識外で何がどのように起こっているか、誰か知る人がいるだろうか。知っていることのみを知っている。それはすべて認識内における話に過ぎない。過ぎないというか、そういうものだ。知っていることはすべてが認識内にある。いや、可能性として考えたことも、それが事実であろうとなかろうと、認識内にある。認識はつねに不純である。だから、考える。ほんとうかどうか考える。認識内もまたカオスかもしれない。はっきりとした確かさがない。

 認識の外にあることは一切考えられたことのないことである。いや、考えられたが、事実かどうか分からないことは、認識内にあるのかどうか。認識の意味するところは、それぞれある。それぞれあるなかで、認識が認識と成立するために必要なこととは何か。誰かが考えたことがあることはその時点で、世界のどこかで思考されていることになる。それが事実かどうか。事実であると思考されたとしても、さらに思考されて事実ではないかもしれないし、たんに時代が変わって、それが事実ではなくなることがある。そのとき、事実はどうやっても明らかとはならない。時代ごとの推移によって事実も事実ではなくなるとき、「述べられたことには期限がある」と言わざるを得ない。期限のない永遠なる普遍は存在しない。いや、その可能性がつねにある。そう言わざるを得ない。いつの時代にあってもだ。