2022-01-01から1年間の記事一覧

その452

思考とは何か。考えるとは何か。単に言葉を媒介に、何かについて理解を深めることのみを考えるというのではない。情報の処理が考え、思考することであるなら、存在するものすべてはその思考の状態にある。周囲の存在との関わりから逃れることはできない。そ…

その451

考えるとは何か。考えないとは何か。考えないことの対極に考えるがあるのか。行為者である私たちは何をどうやっていくか、考えることなしに、ことがうまくいくことはほぼないのかもしれない。どうやればうまくいくか、それを考えることで初めて、生きて命を…

その450

世界とは何か。それはあるがままある。あるがままある世界をそのまま知ることはない。私たちは私たちの認識を通じて世界を知っている。認識していることだけを知っている。認識できていないことは当然ある。認識内存在のみが存在ではない。存在は認識外にも…

その449

力の実在は、力そのものの実在といえるのか。結果的にそうした力がある。力とは、存在の原因ではなく、結果ではないか。存在とはその原因として実在することに対する結果も含むが、結果にいたる原因こそがまず実在する必要がある。なぜ世界があるのか。それ…

その448

明らかなことはすべてが言葉になるわけでは当然ない。ある動きについて、そのようになると把握されることがある。その動きは、確かにそのように動く。どんな力がこの世界には働いているのか。その動きについて、その構造を捉える何か、それは何だろうか。さ…

その447

起こっていないことは謎以前の非存在でしかない。謎とは起こったことがどういったことだったかを考えることで、起こってもいないことは、事実として実在しないのだから、謎以前の話になる。謎ですらかない未来とは何か。観念的には明らかになっていることが…

その446

知っていると思っていることが間違っている可能性があるとき、知っていることは知っているかもしれないことに格下げされてしかるべき。絶対の真実を知っているかどうか。その時はそうだったかもしれない。いや、確かにそうだった。しかし、その断定がそのま…

その445

知っている。だから、生きていることができる。何も知らないような赤子でもその身体は何かしらを知っているから、生きていられる。もし、生まれたばかりの赤子が知らないことしかなかったら、即刻死んでしまう。知っていることがいくつもあるから、生きてい…

その444

認識していないことを認識している可能性はつねにある。認識とは何か。知っていないことも含まれているのではないか。知っていないが関係していないことがある。知っていないこととは、言葉になって知っていないことを意味する。知っているのことのすべてが…

その443

認識の外で起こっていることと、認識の内側で起こっていることは、むろん、その関係にある。関係にあるというか、ひと繋がりのことが起こっているのであり、認識の内側だけで起こっていることがあるわけでもないし、認識の外側だけで起こっていることがある…

その442

全体とはそもそも何か。全体という何かが実際にあるのか。全体なるものがあるなら、それを全体ならしめているものが確かになければならないが、全体を全体としてはっきりと区分けすることはできるのか。関係性を紐解いていったとき、そこに全体があるように…

その441

認識できないことが、それでもそのようにあるとき、そのようにあることが、現に認識していることとその関係にあり、認識していることそれ自体の原因である可能性があるが、認識していることの原因を知り得ないことになる。原因はしかとあるかもしれないのだ…

その440

何かがいかにあるか、それはその運動を止めて観察したところで、明らかとならない。動いているそのものをそのまま捉える必要があるとき、それをいかに行うか。動いている何かをそれ自体として捉えるためには、それ自体そのものの運動をまるごと捉える必要が…

その439

一個のりんごとはその関係性によりできあがっていて、りんごでなくとも、何かしら関係性にある。実際に認識できない関係性がはっきりと存在の側にある可能性がある。ひたすらに関係性を紐解いていったとき、初めてすべてが明らかになるのか。関係性のすべて…

その438

理論とは、部分的な合理性を意味する。部分的合理性とは存在にとって何を意味するのか。その全体にとって完全にあてはまることがない。全体が全体であるために、何がなされているのか。物質の運動がいかにあるか。仮に、あらゆる主体を疑ったとき、何かはそ…

その437

知らない、知っている。それは意識的か、意識的でないかに過ぎず、意識的に知らないことも知っているから、相応の対応ができている。だから、生きていられる。身体の内部で起こっていることについて知らなくても、相応にその外部と巧みにやりあっているから…

その436

知っていることは意識的に知られている場合と、無意識裏に知られていることがある。無意識に知っていることがあるから、確かに生きて存在できている。身体が私の意識がどうであるかとの関わりもなく、対する存在を相手に、さまざまに情報処理を行っている。…

その435

存在がいかにあるか、それが合理的であるかどうか、それは存在をどこかで区切ることで生じる認識にすぎず、認識とはその枠組み内で起こっていることに過ぎない。認識の枠組みをとっぱらえば、存在はそのすべてにおいて、自在に運動しているのであり、認識さ…

その434

存在がすべて合理的にあるわけではなく、ただ私たちが存在のすべてを合理的に認識したい。そんな欲求があるから合理性が私たちにとって意味の強さとともにあるのではないか。存在のすべてが合理的であるかどうか。それは本来、判断しようのないことではない…

その433

合理的でないことが起こっている。それは不合理だが起こっていてもおかしくない。すべてが合理的に起こっていれば、すべては理解可能だ。しかし、起こっていることのすべてを理解できるほどにすべてが合理的であれば、何も動かない。すべては動いている。そ…

その432

何かが起こるための順番は、AがBになることもあれば、BがAになることもあり、つねに片一方の方向へ流れて変化しているのではない。真逆もある。あるいは、可能性としてはCもある。もしくは、まったく起こったことのない現象が起こりうることもある。物質の運…

その431

その運動である万物は、そのどこまでを記号となって実在しているのか。それ自体がそれ自体であることがどれほどの時間、可能だろうか。りんごがりんごだとしても、どの瞬間のりんごも異なっている。あらゆるりんごのあらゆる瞬間は異なっているとき、りんご…

その430

事実とはつまり、そのすべてが言葉になっていない。あることを感じているとき、それがいかに感じられているか、そのすべてが言葉になることはない。事実はだから、言葉を超えたところにある。そのように感じられていることはまさにそのように感じられている…

その429

知っていることがすべて言葉になっているのではない。そもそも、知っていることとは何かを一概に定義することはできないのではないか。どうあれば知っているのか。言葉になったことを理解したとき、それは確かに知られている。知っている。しかし、言葉にな…

その428

まったく知らないとは、言葉になっていないだけで、関係していないことを意味するのではない。関係しているが知らないことがいくつもある。言葉になっていないだけだ。

その427

知らないことと関係しているのは事実。知らないからといって関係ないとは言えない。関係はしている。関係し、さらには意味をもったつながりを持っている何かが誰にも知られずに実在している。だれも知らないのだから、それが何なのかだれも知らない。知らな…

その426

よく分かっていないのに自己が確かに実在している。私は確かに生きているが、それがどのような実態かについて、どれほど知っているだろうか。一瞬、一瞬の私を措定すると、そのほぼすべてを知らないでいる。この場合、知っているとは、言葉になって知ってい…

その425

それ自体が認識体である何か。認識とはその外部の認識とともに、その内部の認識もまた認識である。事実であることを認めているとき、その時点で認識は成立している。何かがそこにあっても、その認識はその存在に関することのすべてではない。何かはつねに認…

その424

言葉になっていないことでも認識している可能性は大いにある。というか、言葉になっていることだけを認識しているわけではないのは言うまでもない。言葉になっていないから知らないというのではないのかもしれない。あれこれと言葉になっていない状況でも私…

その423

言葉の限界とは何か。たとえば、認識の限界だろうか。言葉そのものが持つ機能の限界を言葉それ自体は超えることができずとも、その言葉をもとに行われた認識の獲得は、つまりは感性に由来することで、感性は言葉を超えた実在ではないか。認識は言葉を超えた…