2022-01-01から1年間の記事一覧

その481

認識とはその深まりを見せていくものなのかどうか。認識が深まっていくといった現象は実質的に起こるのかどうか。世界のありようがまずあって、それがどのようにあるか。認識が変わったことで認識は深まったと考えていいのかどうか。ただたんに、変化しただ…

その480

全体はその原初において、あるのかないのか。何かにおける全体があるとしたとき、そこには壁ができている。りんごにはりんごの全体がそれぞれにあるなら、あるところまでがあるりんごのその時の全体であり、それは時間の推移によって変化していく。変化して…

その479

認識において、その変化量を捉えることは肝心であるが、何の変化量なのか。それを捉えることとは、何かが起こっているときに、その内実において、何が起こっているのか、その全体を捉えないといけない。その全体は確かにある。あるだろうが、その全体が全体…

その478

変化それ自体があらゆる認識それ自体の実存に内在されている。何かを認識することとは、変化量を認識することではないか。何かを認識したとしても、それは現実において、認識したことにはならない。認識すべきは単に現実である。現実とは何かだけではなく、…

その477

時間の経過がまずある。その速度があるのではないか。時間の経過速度により、地点Aから地点Bまでの距離には違いがある。地点Aから地点Bに向かうまでに存在する時間の経過のあいだに、その速度の変化がある。その変化量が均一ではない。つまり、地点Aから地点…

その476

明日は現在からしたら、その距離があるのかどうか。距離とは何か。時間の流れにより生み出される変化の量を距離とするなら、現在から明日へと至る道筋には、その距離がある。ずっとその場にいても、時間は流れていく。ずっとその場にいても、現在から隔たっ…

その475

遠ざかっているか、近づいているか。それは何に対してそうなのかが、話の肝になる。他の意味で、すべては、そのすべてから遠ざかっていると言えまいか。つまり、現にあるものがそれ自体として、他の何かとなっていくことを意味している。現にあるものはその…

その474

なぜいずれかの方向へ動くのか。いや、最終的にいずれかの方向へ向かうが、それまでの間に多様な方向へと離散的に散り散りに動いているのではないか。離散的運動が運動の本質であり、その外観上、いずれかの方向へと進んでいる。そのように見える。存在の実…

その473

あらゆる制限から解放された何かが実際にあるなら、それはいかに実在可能か。他の何かがどうあろうと、どう動こうと、まったく関係がない。そんなことが起こりうるか。他の何かがどう動こうともまったく関係のない動きをする何か。それはたとえば、世界にあ…

その472

存在するが、何ひとつとして他の何かと関係していない何かがそれでも確かに実在するかどうか。実在したとしても、何とも関係していないのだから、いかなる観測者とも関係していないともいえるわけだが、その意味でなら、すべてはつねに何かと関係している。…

その471

物質はそれがあるだけで、その自然において、関係性を構築する。関係性が出来上がっていくこととは、構造ができあがっていくことを意味する。何かが存在すれば、それはその自然において、構造ができあがっていく。とはいえど、存在するが、何の構造にも関わ…

その470

構造とは関係性のことであり、何かと何かなどが集まることでできあがるその枠組みである。関係性の生じないところに構造はできあがらない。互いに関係のないもの同士が一つの構造を共にすることはない。構造とは関わり合いを意味する。関わり合いの中で、構…

その470

その469

あらゆる実在と無関係でいられる何かが存在するはずはない。何かがあれば、他の何かとの関係にある。それ故、何かとは何かしらの構造内において実在する。点としてある何かも、何かしらの構造内存在であるはずで、構造の支配下に何にしろ、あると考えるのが…

その468

ただあるものがあるようにあるなかに私たちがいる。いかにあるか、そのあり方にすべてには構造があるのか。構造を持たない仕方で実在することはありえるのか。構造を持たないとはどういったことか。構造とはつまり関係性のことであり、関係性を相互に結んで…

その467

あることがあるようにあるその流れの一部始終の一切がすべて真実である。物質的な現実においてそうである。言葉になったことには疑いがあるものもあれば、そのままそのように正しいこともある。この世界には嘘もほんとうもあるが、それは言葉があるからでは…

その466

見えているものがそのように見えていることとは、ひとつの情報だが、それがそのような実在であるといった決定的な事実を示すのではない。そのものが単にそう見えているに過ぎない。他の認識主体からしたら、他の見え方が実在することになり、それはそれで事…

その465

見えていることからの影響は大きいと言わざるを得ない。それ故に、見えていることをそのまま現実と感じてしまう。明らかに、目の前にあるりんごが現実と考えるが、それはそう見えることがその原因となっていると考えることできる。認識のいかんが現実感を生…

その464

感じたことは世界から切り離されていることで実在可能なのではないか。感じられたことは主観による。主観的な解釈が感じられたことだ。世界そのものは実在しない。ひたすらなる関係性がある。関係性により、何かが何かである。何かであることは関係性のいか…

その463

何かを食べたとき、その味のいかなるかは、世界と関係しているだろうか。食べたものは世界にあった。感じた味覚も世界にあった。しかし、食べたものと感じた味覚はどこにあるか。世界の一切をその流れとするとき、その流れに関係のないことが食べたものの味…

その462

認識内現象は、認識外現象といかに繋がっているのか。いや、つながっているのか、つながっていないのか。そこから問いたいところでもある。認識が認識されていないこととつながっているとき、なぜ認識が成り立っているのか。認識は世界と切り離されることで…

その461

関係それ自体は、個別に実在するものがあることで生じる現象である。何かがはっきりと個別に実在しない限り、その初めからすべてがつながっていることになる。何かが個別にあるとき、それは何かしらとの関係を築くより他はない。関わってしまう。 何かを個別…

その460

世界は運動していて、その意味で開いているが、開いているといった意味は、認識内においてのことに過ぎない。認識の外では何が起こっているのだろうか。それを考えることは、認識内での出来事になる。知っていることのすべてが認識内のことでしかないとき、…

その459

閉ざされた関係性は認識内で閉ざされているのみならず、認識外においても、何かがあることそれ自体は、閉ざされた関係性がその原因ではないか。運動する関係性はそれが何かとして具現化するためには、閉ざされた力が働いていないと不可能ではないか。閉鎖力…

その458

何かが個別に実在するのは、ばらばらにある情報を繋ぐ力が働いているからではないか。むろん、つねに蠢いている世界は、それでもその秩序を備えている。秩序とは何かの関係性のことである。関わり合いが実在しない限り、何かが個別に実在することはない。何…

その457

何がいかにあるか。あるにはあるが、それを語ることが一切できない何かが、語ることのできる何かと関係してある。関係はしているのに、まったくそのことを知らない何か。それは何であるか、まったく分からない。まったく分からないことと関係しているとは、…

その456

実質的にどうかは分からないが、さまざまな現象をロゴスで捉えたとき、そのロゴス内においては無関係である何かが、ロゴス内現象としてあるのではないか。言語化されたとき、その言語内において、関係しきれないことが言語で表現されたことにおいてあるので…

その455

何かが目の前にあって、その何を知っていて、何を知らないのか、そのこと自体を知ることは難しい。知っていることは知っているが、知らないことは知らないわけだが、何を知らないかを知っていることをもとに明らかにすることはできるが、それにも限界がある…

その454

その正体がなんであるか、ロゴスによって理解されていないときに、しかし、それ自体は目で見て確認されているなら、そのこと自体は、認識内にあるといえるのか。認識とは何か。知覚されていることも含むのか。見て知っていることも、それが何なのか、どんな…

その453

思考のあり方はそれぞれであり、その個体であっても、いつどんなときにどこで思考するかで、そのあり方は異なっているのではないか。ただひとつの思考のあり方があるのではない。そのあり方もまた流転するのではないか。何がどうあるか、それはいかに認識さ…