その442

 全体とはそもそも何か。全体という何かが実際にあるのか。全体なるものがあるなら、それを全体ならしめているものが確かになければならないが、全体を全体としてはっきりと区分けすることはできるのか。関係性を紐解いていったとき、そこに全体があるように感じられるのは、認識の限界が原因なのではないか。認識の限界がさしあたっての全体を構成してる。それ以上の関係性がある可能性がつねにある。認識の限界が存在の関わり合いの限界であるだろうか。存在の関わり合いに限界はあるのか。常に存在は動いている。それゆえに、時間の経過の含まれて実在している。時間の経過がわずかにでもあるものが実在しているのであり、流れとしての万物は、その関わり合いをいつもつか。それが問われている。あることがあって、そのことが1秒後に何かと関わりを持つことがあることと、1年後に関わりを持つことがあることの意味とは何か。同じく時間の経過がそこにはあった。そこには時間の経過が確かにあったが、その長さが原因で認識の与える影響が異なるのではないか。あることが100000000年後に影響を与えたとき、それはいかなる意味をもつのか。むろん、あることが100000000年後には実在しない。それゆえに、あることが100000000年後に影響を与えることはない。あることはその瞬間にあるだけで、それが次の瞬間に、いかにあるか。それは分からない。むろん、すべてが同一の時間軸のうえにあるのではない。そのとき、何かと何かの関係とはいかなるものか。関係性においてはつねに時間のずれがある。時間のズレがあるもの同士が関係し合うことがなぜあるのか。関係しているようでいて、関係していないのではないか。関係性を構築するその力とは何か。全体性だろうか。むろん、それは認識内における現象に過ぎないかもしれない。認識外ではいかなる関係にあるのか。それは認識外における現象であるがゆえに、認識されない。知り得ない。