その425

 それ自体が認識体である何か。認識とはその外部の認識とともに、その内部の認識もまた認識である。事実であることを認めているとき、その時点で認識は成立している。何かがそこにあっても、その認識はその存在に関することのすべてではない。何かはつねに認識不完全に実在している。

 認識主体のそれ自身の内部認識は完全ではない。その内部を自らでどこまで認識しているか定かではない。認識とは感じていることでもある。自らがいかにあるかをあらゆる生命はいかに認識し、感じていることか。そのすべてを感じれるのであれば、病の実在は激減するように考えられないか。自己認識があまりにも不完全であることから、病は生じるのではないか。事前に察知できるなら、予防が万全にできるが、それは少しずつ進んでいく研究によってなされていくのであり、自己自身で自己の身体を観察することはない。自己認識がその身体においてどこまであるかは千差ある。身体あっての命だが、その機能の正常性をどこまで知っているだろうか。

 私たちはつねに認識不完全に実在している。自己認識もさることながら、その外部、それはその内部でもあることについて、知っていることがどれほどあるか。宇宙がいかにあるかを知ることで自らの認識にどれほどの変容があるか、それはあまりよく分からない。とにかく、生きているといっても、その認識は曖昧模糊としている。曖昧な認識のうちに確かな自己がある。それはいったいどんな現象か。