その443

 認識の外で起こっていることと、認識の内側で起こっていることは、むろん、その関係にある。関係にあるというか、ひと繋がりのことが起こっているのであり、認識の内側だけで起こっていることがあるわけでもないし、認識の外側だけで起こっていることがあるわけではない。

 認識する、しないに関わりなく、起こっていることが起こっている。認識内だけで起こることは実在しないのになぜ認識内だけで起こっていることがあるように感じられるのか。その機能による認識のうちがわで、その領域内だけで起こっていることが果たして実在するのかどうか。認識の内側で起こっていることは、認識の外側で起こっていることと関係してないと実在し得ない。起こっていることが起こっているのであり、それが認識の内側のなぜ閉ざされるのか。認識の内側において閉ざすことが可能なのは、私たちがそれほどに世界の断片を巧みに捉えることに成功しているからか。あるいは、認識されたことはつねに、認識の内側におけるできごとだけではないのか。それならそれで、矛盾にある。認識内にないことは認識され得ないと考えられるが、それ自体が言語による捉え方の矛盾を本質的に意味しているのか。言語で捉えられ、指し示されていることの意味とは、その領域を区切ることではなく、意味することとなった言葉の領域をつねに超えて、その指し示そうとすることが実在するのか。言葉になったことはつねにそれ以上の何かなのかもしれない。言葉の意味を超えて世界は実在している。認識もまた然り。認識内にある事柄を超えたことを私たちは認識しているのではないか。