その434

 存在がすべて合理的にあるわけではなく、ただ私たちが存在のすべてを合理的に認識したい。そんな欲求があるから合理性が私たちにとって意味の強さとともにあるのではないか。存在のすべてが合理的であるかどうか。それは本来、判断しようのないことではないか。認識の外で世界がどうなっているか、誰かが知っているだろうか。認識の外でのことは認識の外でのことだ。認識していないのだから、知っているはずがない。知っていないこととも確かに関係して生きているはずだが、何を知っていないのか、それがまるで分からない。わからないことは知らない。何を分かっていないか、それも知らない。ただしかし、そうした知らないこととも関係を持っていることが考えられる。どんな関係なのか、それはまったく知られない。

 存在することがすべて知られていない以上、知らないことが確かにある。知らないこととしっていることがその関係にあることも考えられる。いかに関係しているかまったく定かではない。すべてが合理的かどうか、それは存在がいかにあるかそのすべてをしったうえで、そのいかなるかがはっきりとすることだ。合理的に理解されたことはその部分においてそうなだけだ。あるいは、合理的な認識の枠組みにはまったことが合理的に知られているだけで、それが存在がそもそも合理的に実在しているかいなかの判断の縁となるかどうか、それは定かではない。

 合理性は私たちに産んだ、存在に対する向き合い方で、そのように捉えることができるといったことに過ぎない。合理的に捉えられたからといって、存在がそのまま合理的にあるというわけなのか、どうか、それは知らない。