その424

 言葉になっていないことでも認識している可能性は大いにある。というか、言葉になっていることだけを認識しているわけではないのは言うまでもない。言葉になっていないから知らないというのではないのかもしれない。あれこれと言葉になっていない状況でも私たちの身体が言葉を用いることなく、様々な活動を行なっているはずだ。言葉の実在はとても意義深いが、その重さはときに幻影的ではないか。言葉とはなっていないいくつものことが確かに認識されているから、何らかの現象を起こしているのではないか。生命のみならず、物質もその反応をするわけで、自らが何であるかをはっきりと受け入れていることから、他と反応することができている。他との反応の意味は、そこに確かな認識が実在することではないか。何かを捉えることを意味する認識とは、それが何であっても実在するために必要な力ではないか。認識とは、それがなんであれ物質がそれ自体として実在するための力ではないか。存在すれば、それは認識を持つ。それ自体であろうとし、かつ、それ自体の外部と反応しようとし、万物は力としての認識をもつ。