その423

 言葉の限界とは何か。たとえば、認識の限界だろうか。言葉そのものが持つ機能の限界を言葉それ自体は超えることができずとも、その言葉をもとに行われた認識の獲得は、つまりは感性に由来することで、感性は言葉を超えた実在ではないか。認識は言葉を超えた実在ではないか。むろん、言葉がいかにあるかが認識との関係にあるが、その言葉の限界それ自体が認識にどれほどの影響を与えているかは定かではない。影響があるのは確かだとしても、それがどれほどのことか定かではないことが意味するのは、事実と量の関係であり、言い換えるなら、言葉で示されたことと量の関係である。言葉で示されたことがどれほどの量にあるか、それを数に置き換えたところで、それもまた記号的な側面をもつ。現実の実質は言葉を超えてある。言葉でいけないなら、何というべきだろうか。

 私たちは何を知っているのか。言葉で表現されたことそれ自体をそれ自体として知っているだけではないはずだ。では、何を知っているのかとなったとき、言葉で表現されること以上のことを知っている。しかし、言葉を超えた実在をいかに認識できるのか。認識できているのかどうか定かではない。定かであるとはどういったことなのか。言葉になっていないからといって定かではないと言い切れるだろうか。認識していれば、それはそのように捕らえられているのではないか。言葉にならない認識をいかに認識できるのか。