その438

 理論とは、部分的な合理性を意味する。部分的合理性とは存在にとって何を意味するのか。その全体にとって完全にあてはまることがない。全体が全体であるために、何がなされているのか。物質の運動がいかにあるか。仮に、あらゆる主体を疑ったとき、何かはそれぞれそのようにあるに過ぎない。何かが確かにありつつも、その何かは認識内でその主体性を得ているだけで、実際にそれがあることにおいては、その他の実態と同一の地平にあることになる。何かがそれだけであることはあり得ない。何かはそれを含み込んで実在する。それゆえに、何かがそのようにあることの意味は、何かがそのようにあり得ていることを意味する。すべてはそのようにあり得ているのであり、何かだけがそのようにあり得ているわけではない。何かがそのようにあることが他の何かに影響を与えているかもしれないし、与えていないもしれない。なぜ何かがそのようにあるのかは、それがそのようにありえようとしているだけではなく、そのようにあり得てしまったという結果による。むろん、そこには因果がある。そのような姿となったそれがなぜそのうなったのかについて語るべきは、それ自体についてではなく、その他の何かにおいて、関係のある事象がどのような関係性を築いているのか。関係性だけがあって、その中心はないのかもしれない。いかなる関係性が築かれているか、その一瞬、一瞬の把握はできない。知ることのない関係性の連鎖の果てにいまがある。なぜそうなったのか、それを具に語ることはまずもってできない。知らない関係性のうちに生きている。