その426

 よく分かっていないのに自己が確かに実在している。私は確かに生きているが、それがどのような実態かについて、どれほど知っているだろうか。一瞬、一瞬の私を措定すると、そのほぼすべてを知らないでいる。この場合、知っているとは、言葉になって知っていることを意味するのであり、言葉になって知っていないことは知らないと定義されたことだ。

 言葉になっていることを知っているとして、言葉になっていないことはでは、知らないのか。知らないが機能として実在し、活動していることはいくらでもあり、それゆえに生きていられるのではないか。そのとき、言葉になって知っていないからといっても、まったく知らないのではないということができないか。知っているとは何か。この問いについて答えはいくつもある。言葉になって知っていることがまずあっても、それだけが知っていることではない。言葉になっていなくても、知っているから生きていられると考えてもよいのは、身体のすべてがさまざまに活動していて、その運動が様々にある。身体が正常に活動するためには相応の知が身体それぞれにあるはずだ。私からすると無意識であっても知っていることがあるから、生きていられるのではないか。