その435

 存在がいかにあるか、それが合理的であるかどうか、それは存在をどこかで区切ることで生じる認識にすぎず、認識とはその枠組み内で起こっていることに過ぎない。認識の枠組みをとっぱらえば、存在はそのすべてにおいて、自在に運動しているのであり、認識され得ないことも含んで、そのようにある。

 存在の運動がそのように動いていると認識されたとき、なぜそのような認識を持つことができたのか。運動のあり方を認識内の合理性で捉えることができた。それはあくまでも私たちにとってそのように理解可能だったこと。私たちが知っていることは私たちが知ることができたことであり、認識可能なことを私たちは知っている。