その485

 判断が介在する時点で、それが正しいかどうか、ひと思案が生じる。本来の正しさとは、それがそのように起こっていることではないか。判断はつねに間違いの可能性をひめる。いかなる判断も介在しない、ただそれがそのように起こっていることとは、正しいも間違っているもない。そう起こっている。本来であれば、そのような現象にある万物が、こと私たちに認識されようとしたとき、間違っている可能性をひめる。それはつねにある。私たちはその自然においてつねに正しさを知りうることができるわけではない。正しいかどうかの判断が実在する時点で、正しくないことが実在するようになる。判断停止。それ自体が、正しいとか間違っているといったロゴスを超越する。ロゴスを超えたところに、普遍がある。ロゴス内にはつねに判断がつきまとう。判断の一切を拒絶した実質的が現象がそのように起こっているとき、いや、しかし、そのような実質を感じ得ることが可能だろうか。あるがままの世界をそのまま感じ取ることができるだろうか。一切の誤りを知らない世界。いや、そもそも、そのようにある世界それ自体は誤りなど知らない。誤りを知るのは端的に私たちの側だ。むろん、私たちの知る誤りがほんとうに誤りであるかどうか、それは定かではない。としたとき、正しさとは何か。実在し得るのだろうか。