その497

 理解可能なのはすべてが認識内にあるからではないか。そのとき、理解されていることはすべてが認識内にしかない。認識内そのものが私の思う世界となる。世界が仮に、認識内にしかなければ、私は世界それ自体において実在していることにはならない。むろん、世界は認識の外のもある。認識の外に広がる世界と私は関係している。ただそのいかなるかを知らない。いや、知らないといっても、関係はしていて、つまり、身体的な反応はなされている。精神で理解していないことと関係して、反応しているとき、無意識に精神的に理解されていないこととつながっている。であれば、私は私の知らないことを無意識には知っていることになる。無意識に知っているなら、私は認識外のことも知っていることにすらなりそうだ。認識しているか、していないか。それは、意識的か、無意識的かの差がある。無意識的に知っていることがなんなのか、それは分からない。分からないが知っているのかもしれない。いや、確かに知らないのかもしれない。無意識も含めて、知っているのかどうかの判断をしようとしたとき、その明確さを完全に欠いてしまう。わからない。徹底的にわからない。意識的に知っていることのみを知っていることとしないとき、私がしっていることが何なのか、その全貌がまったくはっきりとしなくなる。