その495

 物質の運動はいずれかの思考性を持っているのだろうか。結果として、いずれかの方向へと向かうが、そう向かって行った何かが、そのすべてにおいてその方向へ向いているのではない。震えである万物が、結果的にある方向へ向かうとき、震えであるそのものをいずれかの方向へ向かわしめる力が働いていると考えられる。それは純粋にそれ自体の志向するがまま向かっているのか。いや、それは不純に、ある方角へと向かっているのではないか。あたかも、純粋な指向性のもと、それは向かっているかのようであるが、その方向へと向かっている原因について考えたとき、いくつもの要素が遡上にのぼらないか。なぜ、ある方向へ向かうのか、その原因はいくらでもある。ただ単に、そのものだけのもつ指向性によって、そのものがある方向へ向かっているのではない。向かおうとしているかもしれないが、それ以前に向かおうとさせられているかもしれない。そのとき、いずれかの方向へ向かう現象の背後には、そのもののもつ力と同時にそのものの外部からの力が原因としてある。その両方があって、いずれかの方向へと向かう。そのとき、いずれかの方向へ向かうことにおける原因は、そのものとそのもの以外のあいだにある。そのものとそのもの以外のあいだにある何かが結果的にそのものをいずれかの方向へと向かわせている。 そのものとそのもの以外のあいだにはいったい何かが隠されているのか。