その502

  言葉の意味を走らせるのは、その使用者であり、言葉そのものではない。言葉はその意味を持つが、その意味とは、それ以前にある世界の状況により決定づけられる。言葉になる前の何かがいつしか言葉になる。その言葉は、誰かの出した判断であるが、その判断の根拠は、世界のありように委ねられている。世界がいかにあるか、そこになぜか判断が介入する。正しいか間違っているか。試行錯誤のうちにある精神は間違いもし、正しいと思われることを捉えることがある。その正しさの根拠は世界にあるはずだが、構造的な側面をもつ。いったい、私たちの認識はどこまで世界の素肌に触れ得ているのか。世界の運動を捉えた構造があったとして、それはなぜ出現したのか。さまざまな知恵をかき集めていったとき、およそ偶然にも導き出された結論がそのまま世界にあてはまったのか。その営みにおいて、どれほどまでに世界の構造をまっさらに観察した結果、私たちは何かを知っているのだろうか。

 認識された世界は認識内で閉じている。むろん、その認識が世界の素肌に届いている可能性もある。いや、正しい認識は世界を正しくなぞっている。世界から与えられた認識ということもできる。正しい認識のすべては世界から与えられたものだ。世界がそのようにあることが原因となって、認識ができあがる。あらゆる認識の原因は世界にある。世界を原因にもたない認識は実在しない。世界から付与された認識をあらゆる実在がそれぞれの仕方で所有している。ある鳥もまた世界から付与された認識をもったうえで実在している。世界に内包されたすべての実在にとって、それ自体が実在する原因はそれ自体であり、かつ、同時に、それ自体の外部にある。それ自体と関わりをもつ外部はいかにあるか。存在するからといって、すべてがすべて関係しているといってしまっていいのだろうか。存在の外部は世界において限定的なのではないか。限定的な実在はそれゆえに、その消滅が可能なのではないか。世界がただその移ろいだけでできているとき、何も消えることがない。その実態をかき消してしまう何かがある以上、消滅するために何かしらが求められる。何があれば実体の消滅が可能なのか。燃やし尽くした紙は灰となって、どこにもない。燃やされた紙が消えてしまうために必要なことは何だったのか。世界から一枚の紙を消し去るために必要なことは何なのか。ただの変化ではない。紙はそれがあるだけで変化にある。紙として変化することを意味するのではなく、紙ではないものへの変化が起こるために世界は何が必要か。