その505

 認識の実在が個物を実在させているのか。何かがりんごであるとき、それは認識の実在により生じたことなのか。つまり、りんごがりんごであるのは認識それ自体の実在によるところなのか。認識主体の一切がなくても、りんごはりんごではないか。りんごはりんごであることをりんごであることで終えることはできないのではないか。確かにりんごは実在し、それはりんごである。りんごという呼び名はりんごの本質とは関係がない。りんごと呼ばれる、そのような物質がいくつもあることは確かだ。しかし、りんごがりんごであるためにりんごという呼び名は必然ではない。偶発的にりんごと呼ばれている。りんごと呼ばれるそのものがいくつもこの世界にある。それはりんごと呼ばれることよりか深い意味をもつ。そのようにあるものが同一的にいくつもある。りんごにはりんごらしさがある。りんごらしさとは何かと簡単には言えないが、りんごは確かにどれもりんごである。わずかの例外を除いて、いくつものりんごがりんごである。りんごはりんごであることでりんごを定義しているのではないか。