その489

 思考なくして、現実の実感がないというのは、感覚であっても、その情報処理系において実在するのであり、それはつまりなんらかの思考がもとになっていると考えられる。ある感覚を得たのは、対象について、処理した結果である。あらゆることが情報処理系として実在する。世界とは一個の思考体ではないか。もっとも、私たちの認識内には、私たちによる思考があり、その結果としての世界を知っているが、世界は私たちの認識の外にも歴然とある。認識外の世界について、それは認識内の世界との関わりにある。認識されていないことが認識されていることの関係しているとき、認識されていることとはどんな意味をもったうえで実在するのか。認識が認識としてなぜ、認識外のことと関係している状況で実在可能なのか。認識されたことは、認識していないこともまたその土台にある。いや、認識されたことは、認識外の世界のすべてが土台となっているのではないか。

 世界があるから認識がある。とはいえ、現在の世界のように世界がなくとも、かりに、現在の世界の部分だけがあったとしても、歴然と何かがあり、そこの認識主体がいれば、なんらかの認識がなされる。なぜ、世界の断片を切り取ったような認識がそれとして成り立つのか、そのわけとして、認識それ自体が認識主体のうちがわで完結するようなシステムにあるからではないか。私たちが何かを認識可能なのは、私たちの内側で認識が成立するからではないか。認識の成立は、純粋にその認識主体のもつ認識システムに依存している。そのスシテム内でシステムが成立することでなぜ、世界の断章を捉えたような認識が成立するのか。世界は認識主体の認識のあり方に適応するように現実を紡いでいるというのか。