その488

 認識外には一切の飛躍はない。認識内においては、その飛躍があるかもしれない。認識外にはあるがまの世界が広がっているが、そのありようを私たちは知らない。認識内にあることだけを知っている。認識外のことと関係はしているが、いかに関係しているかを認識内においては知り得ないのだ。関係しているが知らないこと。それは世界という器に生きていて、それがどのようなことであるかを知らないことを意味するのである。生きていることがいかなることか、そのほとんどを知らないで生きている。認識していることはわずかしかない。認識外のことはそれが認識外にしかないのだから、知らない。知らないことは知らないのであり、知っていないのである。知っていないことと関係しているといったところで、どんな関係なのか、まったく知らないのである。

 もっとも、知っていることと、知らないことがどんな関係にあるか。知っていることは知っていて、知らないことは知らない。その中間はあるのか。知っているようでいて、知っていないことは、単に知らないのではないか。知らないようでいて、知っているようなことは、知っているか、知っていないかしかないのであり、それは排中立にある。認識内にグレーゾーンはない。認識外にもグレーゾーンはない。知っているか、知らないか、その何でもないとき、知ってもいないし、知らないのでもない。それは単に、その可能性が考えられている状況にあり、思考内世界にすぎない。思考内世界とは、考えられている世界のことであり、現実かどうかはひとまずおいておかれていることを意味する。私たちは、思考内世界にいるのではないか。