その492

 私たちが認識できるのは一点ではなく、無限のなかほどにある一点ではないか。何かがあることとは、その無限の運動が根底にあって、そのうちに何かしらの一点を認識として見出す。認識はその静寂を意味する。動的な世界のなかで、その無限における一点が認識されて、なぜ実在可能なのか。止まるところを知らない世界の何かが認識される。世界はその限りにおいては静寂となる。それはあくまでも認識内における静寂である。認識内静寂性とは何か。認識外はカオスかもしれない。認識はそれが認識となるためには秩序が必要となる。それゆえに、認識は静寂で満たされる。たとえば、数式といった静寂となる。動的波乱の世界において、私たちの知っている世界はその静寂にある。静寂にあるのではない世界を静寂として知るのである。