その482

 認識流転性それ自体の内側にいつもいるようでいて、むろん、存在している誰もが認識外とつながっている。実存的には認識内と認識外において存在しているのであり、認識内だけに実在することはあり得ない。もっとも、我思う故に我ありというのであれば、思うこと、すなわち、なんらかの認識それ自体が、各人の実存を担保することになるわけだが、思うことだけが自らを存在させているのではないのは自明であり、その不可知な部分もぞんぶんにある自然が現象することで、この私は生きている。思うことそれ自体の肝心さは確かにある。その意味はもっと考えてみたい。ただそれでも、思うことだけが私の実存の肝心な部分を占めているかといえば、それは過言ではないか。認識外に、つまり、認識していないが、私の実存に肝心なことがいくらでもあるのではないか。言葉になっていないからといっても、それ故に私が生きていることができる、その原因がある可能性はいくらでもある。可能性にすぎないことは否めない。認識の外のことであるが故に、認識されていないのだから、可能性として考えられることだ。あくまでも可能性にすぎないとしても、その可能性をいつ私たちは捨て去ることができるのか。認識内のことだけを事実として生きているのではないと考えることはいたって自然のように思う。わかっていないことはわかっていないのであり、それゆえに、実に覚束ないが、覚束ないとしても、ありうることがある。事実ではないから、なんとも言い難いが、思えば、誰もが自らの認識内から少しずつでも脱出して、いまに至るのではないか。認識は流転する。そこに真実があるなら、認識外もまた認識内に含まれるということすらできないだろうか。