その493

 すべてが明らかであるとき、すべてが感覚される。すべてが感覚される状況とはありえないが、世界を丸ごと感覚的に知ったことになる。すべての音が聞こえ、すべての色彩がみえる。そんなことが起こるはずもない。起こるはずもないのは、感覚はどんな生命にとっても、存在を限定する機能として実在する。実在Aがある。実在Aがいかなるものかを感覚的に捉えたとき、実在Aの全貌はかき消され、その閉鎖力によって、実在Aから何かしらのクオリアを得ようとする。存在の質感は、存在ほんらいの質感ではない。存在の全体の質感と私たちが感じ取る質感は異なっている。

 私たちの感覚する世界は閉鎖力によって閉ざされている。閉ざす力によって、何らかの感慨を得る。閉ざす力が働かなければ、何一つ得ることがないのではないか。存在とある関係を構築することで、断片が生じる。それが感覚の正体といっても過言ではない。感覚が向かう対象と感覚の機能それ自体は、それぞれが相互に独立した現象である。現象同士が関係し合い、何かしらの感覚が発生する。それは対象と感覚がいかなる相性にあるかである。関係性とは、その関係性を構築する物質それぞれの全貌的関係性ではない。いや、全貌的に関係した結果、部分的な算出結果がでるのかどうか。