その487

 変化を追いかけていくと、どうか。存在していた何かは、消え果ててしまうのではないか。消えたとき、その痕跡がどこかにあるか。過去にはその痕跡があっても、現在にはない。未来にもない。いや、過去に残した痕跡が、それ自体ではない、他の何かによって、その影響を与えている可能性がある。影響を与えた時点で、それがあった。いや、あることになるのではないか。あった、と、あるは、いかに違うか。いま、存在しないからといっても、それが影響を与えないというのではない。過去にあったそのことが、現在がいかにあるかの原因であることがある。はるかの昔、そうであってことが原因でいま、各各然然である。そのとき、現に実在しないからといっても、関係がないとは言い切れない。現にあるものは、かつて、何かがそうだったことが原因になっている。それは明らかにそうだ。そのとき、時間の流れにおいて、渡したちの認識内に、不連続な繋がりは発生することになる。過去のあることが現在のあることと関係している、そのありようの一部始終を観察したのではないにも関わらず、関係があるというとき、認識内においてであれば、その飛躍がなされたことになる。もっとも、それは認識内においてそうであるにすぎない。認識しきれないかもしれないが、かつてそうだったことが現在のいかなるかに影響を与えているとき、それはすべてが連続的にあるはずで、いうなれば、飛躍はない。認識内においては飛躍したように感じられるに過ぎない。過去そうであってことが、その時から変化していまにいたった。そこに飛躍のひとつもない。