その458

 何かが個別に実在するのは、ばらばらにある情報を繋ぐ力が働いているからではないか。むろん、つねに蠢いている世界は、それでもその秩序を備えている。秩序とは何かの関係性のことである。関わり合いが実在しない限り、何かが個別に実在することはない。何も個別に実在しないが、とにかく存在する世界とは混沌以前の何かだ。何も認識主体が存在しない世界はそれがあるのかないのか、どんな存在にとっても不明である。そんな世界は実在するだろうか。実在すれば実在するが、実在しなければ実在しない。どんなあり方でも実在すれば実在するが、あり方によっては認識できない。存在はそのすべてが何かの主体により、その外部に対する認識が行われる。どんな認識も世界に対して、その認識主体からしたら、その外部でしかないのではないか。それは認識主体の内部の認識であっても、世界に映し出された像としての外部ではないか。私たちにとって世界とはそれがどんなものであろうと外部である。像が映し出され、それを認識している。認識とは認識主体の外部に像を作り出すことではないか。それがそのまま世界であるが、それは存在そのものそれ自体であるというよりか、作り出された像であり、その像は世界そのものであるというよりか、認識主体との関係性にうえに築き上げられた世界であるに過ぎないのではないか。どんな認識もその主体により閉ざされているのではないか。閉ざされているから実在可能なのが世界といった認識像なのではないか。いかなる関係性も動的であり、かつ、閉鎖系として実在するのではないか。閉ざされているから認識として成立するのではないか。あるいは、閉ざされているから関係性が成立するのではないか。それ自体として実在する何もが閉ざされていない限り、個別に実在することはできないのではないか。