その463

 何かを食べたとき、その味のいかなるかは、世界と関係しているだろうか。食べたものは世界にあった。感じた味覚も世界にあった。しかし、食べたものと感じた味覚はどこにあるか。世界の一切をその流れとするとき、その流れに関係のないことが食べたものの味となっていないか。世界から切り取ることで、味が成立するのではないか。流れそのものを感じることはできるのか。風ならできるかもしれない。それゆえに風の流れは無上なのではないか。味は存在の流れを止めてしまうことで成立するのではないか。感じた時点で止まってしまう。それが味ではないか。あるいは、感じることとは止めることを意味しないか。止めようとして感じているのなら、意識とは存在の流れに棹差して、止めようとすることを意味するのではないか。止まるわけもないことを止めようとするところに、クオリアが発生するのではないか。