その468

 ただあるものがあるようにあるなかに私たちがいる。いかにあるか、そのあり方にすべてには構造があるのか。構造を持たない仕方で実在することはありえるのか。構造を持たないとはどういったことか。構造とはつまり関係性のことであり、関係性を相互に結んでいないが、それでもこの世界に確かに実在することがある。存在する物事のすべてが関係しているのではなく、存在はするが、相互に、ある関係性を築くための構造のうちにあるのかないのか。私たちの認識における存在を存在としたとき、その存在は、つまり、認識内存在とは、構造内における現象でしかないのではないか。構造、つまり、関係性を持っていることで認識され、認識内存在として、その落ち着きを得る。私たちにとっての存在とはすべてが認識されているものではないのは自明である。認識内存在と認識外存在にはっきりと分かれるわけだが、認識内にあるものごととはつまり、構造化された何かではないか。関係性について私たちは認識するのではないか。むろん、単独で、それが何であるかを認識することもある。それは関係性についてではない。ただそれがそのようにあるだけである。しかし、それがそのようにあるといっても、それはそのようにあるために動いている。と考えた時、そこには、ある運動をもとにした関係性があるのではないか。私たちに認識できるのは点ではなく、動いているその関係性でしかないのではないか。すべては動いているのであり、そこには関係性が発生する。発生する関係性を認識するのであり、何かを点と捉えて認識したところで、それがそれでしかないといったことは実質的にあり得ないのではないか。