その453

 思考のあり方はそれぞれであり、その個体であっても、いつどんなときにどこで思考するかで、そのあり方は異なっているのではないか。ただひとつの思考のあり方があるのではない。そのあり方もまた流転するのではないか。何がどうあるか、それはいかに認識されているかである。いかにあるか、それは認識されて初めて、そのあり方があると言える。どのような存在のあり方も、確かにそのようにあるとしても、認識内に実在しなければ、それは私たちにとってあるといえるだろうか。可能性としてあることと、実際にそうであることは違う。認識内において、可能性なのか事実なのか、その差がある。実際にそうであるかどうかは、私たちがどう認識しようとも関係ない。それがそのようにあるかどうかは、排中立にある。そうであるか、そうでないか。

 存在するものは認識内にあり、かつ、認識外にある。認識内と認識外にあるものについて、それがいかにあるかは、次のように言える。つまり、一個のりんごがあっても、そのすべてが認識内にあるというのではない。一個のりんごであっても、そのすべてが完全に認識されているのではないのだから、認識され、そこにあるりんごでも、その内実は、認識外にもある。その全体が見えているとしても、そのすべてが認識されていないとき、その存在は認識内にあり、かつ、認識外にもある。見えているもののすべてが認識内におさまっているわけではない。認識外にあることも見た目だけであれば、はっきりと見える。