その474

 なぜいずれかの方向へ動くのか。いや、最終的にいずれかの方向へ向かうが、それまでの間に多様な方向へと離散的に散り散りに動いているのではないか。離散的運動が運動の本質であり、その外観上、いずれかの方向へと進んでいる。そのように見える。存在の実質をミクロに観察すれば、原子がさまざな構造のうちや外に広がってうごめている。蠢きこそが存在の実質を物語る言葉ではないか。

 実質的にどうなのか、外観上の話ではまったくない。ただひたすら存在がいかにあるか。見た目とは一切関係がないといっても言い過ぎではない。離散的運動をどう定義するか、それは定かではないが、離れていくようでいて近づいている。そのような運動を行っている可能性にあるといえるのは、何かにとって離れているものは、他の何かにとっては近づいている可能性にあるからで、何かがあることは、他の何かとの関わりにおいてあるのであり、他の何かとは単一の何かではない。それ故に、ある主体がその運動をいかに行なっているかを考えたとき、ひとつの方向の向かっているわけではないことが明らかではないか。何かにとっては離れていっているが、何かにとっては近づいている。その主体それ自体は結果的にいずれかの方向へ進んでいくが、それがどの方向であるか、それは何かを一旦定めないことには、明らかにならない。ただあるものは、むろん、いずれかの方向へ進んでいくが、それがどちらへなのかについては、精神のうちでさまざまに変容する。思考する精神のうちで定められる何かがある限り、その主体はいずれかの方向へと進んでいるが、遠ざかっているのでもあり、近づいているのでもある。