その480

 全体はその原初において、あるのかないのか。何かにおける全体があるとしたとき、そこには壁ができている。りんごにはりんごの全体がそれぞれにあるなら、あるところまでがあるりんごのその時の全体であり、それは時間の推移によって変化していく。変化していく全体がある。それはあくまでも全体であって、その全体があるといった意味において、その全体に含まれない何かと離れていることを意味する。存在するあらゆる物事のなかで、何かがあって、その全体があること。それは、存在するあらゆる物事のなかに、それぞれが築き上げている全体がさまざまな現象とからみあって、実在していることを意味する。動的な、運動しているネットワークの全体が世界全体に広がっていると考えたとき、認識の主体となった個物がその全体をいかに築き上げているか。認識されたものが認識内にある。しかし、世界は認識外に広く広がっている。認識内だけのことで認識を語っていいものかどうか。むろん、認識外にあることが世界を構成している事実はある。そのはずだ。そのはずのことが語りようもない。いや、認識内存在のことを語ることで、その認識の外に向かっていけることはあるはずだ。認識内それ自体もまた動的である。拡張されていくのかどうか、それは容易にはいえない。認識が進んでいくことで、打ち捨てられていく認識内があるかもしれない。確かな認識をもつことが認識の本質であるとき、認識は拡張されていくべきかどうかは、議論のあるところではないか。