その454

 その正体がなんであるか、ロゴスによって理解されていないときに、しかし、それ自体は目で見て確認されているなら、そのこと自体は、認識内にあるといえるのか。認識とは何か。知覚されていることも含むのか。見て知っていることも、それが何なのか、どんなものかのか、言葉や数に置き換えることなしにしっていても、それはただものの表面を捉えたに過ぎない。むろん、言葉に置き換えていったからといっても、それでそのものを網羅的に知ったことにはならない。ならば、知っているとは何か。どんなことか。

 何かの全体の像を知ったことのない私たちは、何かを完全に知ったことはないのではないか。ならば、つねに何かを知らないといったことが事実、明らかなのではないか。知っていることの更に向こうがある。まだ知っていないことがある。知っていることが他の何かといかに関係しているか、それを知っていかないといけないのに、何かと何かがいかに関係しているか、そのことを私たちはどれほど知っているだろう。関係性について知っていったとき、関係のなさもまた明らかにすべきことではないか。私たちは何を知っていて、何を知らないのか。