その481

 認識とはその深まりを見せていくものなのかどうか。認識が深まっていくといった現象は実質的に起こるのかどうか。世界のありようがまずあって、それがどのようにあるか。認識が変わったことで認識は深まったと考えていいのかどうか。ただたんに、変化しただけのことではないか。それは深まったといえるだろうか。

 世界がいかにあるかをいかに捉えるか。認識それ自体にありようがある。そのありようが原初、いかに世界があるかを説明する原因になっているのではないか。世界がいかにあるか以前に、世界がいかにあるかをいかに認識するか、その方法があるのであり、世界のいかなるかは、まず先にある方法に依存している。認識はすべて、それぞれの方法によって行われるのであり、その方法のあり方に依存した世界が認識として立ち現れてくることの意味とは何か。

 世界は一通りの仕方で実在するはずだが、そのいかなるかを認識しようとするなら、認識それ自体のありように依存する。認識のありようは、その機能のこと。どんな機能をもった道具で世界を捉えるか。いうなれば、世界は人間がもつ道具に依存した結果として現れてくる。それはそれとして正しい。しかし、他にもいくつもの正しさがあるはずだ。それぞれがそれぞれ世界の断片を取り出そうとする。どんな認識も唯一のものだ。なぜ、それぞれがそれぞれのうちで正しいのか。それはそれぞれの認識主体に依存した結論がそれ自体として算出されるからで、それは、認識主体それぞれにとってのリアルなのではないか。リアルはいくつもある。認識主体にとって、それがリアルだと思えることがリアルなのである。真実はひとつかもしれないが、その真実は分からない。理解されることのない真実とは別に、そうだと思われる真実が認識主体の数だけある。そのうえにさらなる認識ができあがる。時間軸を投じたとき、認識は様がわっていく。そうとしか実在のしようがない認識はそれ自体が流転するものだ。流転する認識に最終的なゴールなどあり得るだろうか。