その457

 何がいかにあるか。あるにはあるが、それを語ることが一切できない何かが、語ることのできる何かと関係してある。関係はしているのに、まったくそのことを知らない何か。それは何であるか、まったく分からない。まったく分からないことと関係しているとは、どういったことを意味するのか。

 関係性について、それがいかにあるか、それはこれから少しずつ明らかになっていくのではないか。何かがあることの意味について、その全体像を語ろうとするとき、その何かが関わっていることのすべてを明らかにしなければならないが、何かがあって、それが関係していることの総体について、私たちはいかに知ることができるのか。認識の限界があるのかどうか。私たちがどこまで生きていったとしても、世界を完全に理解することができないかもしれないのは、世界はつねに動いていて、その移ろいにあり、世界の過去も含めて知らなければならないとき、過ぎ去ったことはもはや完全に知ることのできないこととして、時空間にその痕跡を確かに残している。確かにそれらはあった。あったことだけは言葉にそのように記すことができるが、いかにあったか。それはおおよそ知ることはできない。知り得ない何かに生かされているということ。それはなぜ生きていられるかを完全に説明できないことを意味する。生きていることのみならず、ただ存在していることの意味について、誰が語りうるだろうか。生きていることであるなら、生命として現象していることについて語ることになるが、存在していることであれば、なぜ何かがあるのかについて語ることになる。なぜ何かがあって、それゆえに世界があるのか。それは複雑さがその原因ではないか。言い換えるなら、関係性の連鎖現象が崩壊することなく、秩序を築いていっていることが原因で何かがあり得るようになっているのではないか。関係性が確かにそのようにあり得ていないとき、世界はただひたすらなる混沌にあることになる。