その368

 1が2になるために必要なことはなにか。もうひとつりんごを買ってくることかもしれないし、友達と落ち合うことかもしれない。あるいは結婚することか。1が2になるためには、何かがまず一つあることが求められる。それはある領域を設定することで生じる現象だ。領域を一切設定しないのであれば、存在のすべてが関わってくる。そうなる何がいくつあるかはっきりとしてことない。何かがいくつあるか、それはどの領域においてのことかと、設定してやることで初めて具現化される。どこそこにはいくつあるが、さらにその設定を広げれば、存在する数は変わってくる。あるいは、数えている間にその数が減ったり増えたりすることも考えられる。個数ではなく量であるなら、それはつねにその変動にあるはずだ。いくつのリンゴがあるかはある期間において一定であるが、どんなりんごであるか、それを表現するためのそれぞれの成分はつねに変動している。存在の渦中にあるものはそのすべてが変動すると考えたいものだが、個数と言葉はたえざる変動にはない。一定期間一定である。個数はその事実を理解しやすい。言葉もまたその意味を変えていくし、誰に受け取られるかでその意味がかわる。変わるのだが、一瞬の隙もないまま変動するのではない。変動しない時期が変動するその変化の渦中にある。そこに隙間がある。変化が常体であるとするべきで、その常体である変化の最中に変化のなさがまったくない時間帯がある。意味が一定している時間帯においてその言葉の意味はいっさい変わらない。変わらない状況から変わりゆく状況がある。とはいえ、よく考えてみたい。思考する主体がつねに思考しているとき、それこそが思考する主体の実質であり、脳髄はその休まるところを知らないのであり、その変動にあるなかでそこに込められた言葉はその言葉として意味を変容していく過程にあるのではないか。具体的な言葉になって明白ではなくとも、脳髄ではその無意識においても考えられているのであり、言葉になって明白ではなくとも、思考の過程がずっと続いているのであれば、言葉もその意味をそれぞれの思考主体に依存しながらたえざる変遷の最中にあるといっても差し支えないのではないか。言葉があるのではない。意味がある。言葉はそのものとしてはインクの滲みであったりで、物質レベルでの変化にあるが、それ以前に、その意味が固定されているようでいて、無意識裏においてたえざる意味の運動が起こっている。言葉があるのは、りんごがものとしてあるようなもので、りんごがたえざる運動にあるように、言葉もまたその意味を変えながらある。変わらないことにおいても、その運動を止めるための力が働いている。いずれにせよ、変動にあるなかで、姿を変えるか、変えないとしても、そのための力が働いているのであるのだから、いずれにせよ、言葉はその運動状態にあることがつねである。それは言葉が思考の対象であり、思考は脳髄が止まらない限り行われていることであることから明らかではないか。