その375

 未来があるかどうか。未来があるから現在があると考えられる。現在だけがあるようでは、何も存在しないのではないか。運動が存在の根源にあるとき、存在を存在させている運動はいかなるものか。運動とは変化のことであり、現在において現在ではない状況が発生していることを意味するのではないか。現在においてその現在と同じ現在しかなければ、世界はその運動を持つことがない。運動する存在のどんな一瞬も捉え切ることはできない。止まっていないものは動いている。動いているものは広がっていて、それがどこまでの広がりにあるのか。未来にすでに到達しているのが現在にある何かなのではないか。いまだやってきていない世界の戸口にあるのが現在なのか。いや、現在はすでに戸口の向こうに広がってもいるのではないか。未来とともに現在がある。過去もまた然り。時間の広がりは、認識の外にも広がっていると考えられないか。時間の広がりがいかにあるか。それは認識の外においても広がっているはずだ。捉えきれない時間の広がりのなかにいるのが私たちではないか。認識の中で考え、決定されたことを現実と思いつつも、それ以上のなにかがあるはずだと考える。とはいえ、認識の拡張の限界がある。むろん、その限界は更新されていく。テクノロジーの発展にともなって認識の限界は乗り越えられていく。認識の限界とは理性ばかりではない。感覚の限界もまた認識の限界として超えられていく。どのように世界があると感じられるか。認識が変化していくことで何を現実とするかも変わっていく。過去も未来も現在もその境はないのかもしれない。境があると感じていることに認識の限界があるのではないか。さしあたり、そのように考えてみたものの、その確証がはっきりとあるわけではない。ただ可能性として、認識内存在ばかりが現実を作っていると考えられる。可能性について考え始めると、世界の果てに思いがおよぶ。何があって、何がないのか。それすらもわからない。わからないことがいくらでもあることから逃れることができるはずもない。