その378

 りんごがりんごであるのはそれがりんごだからであり、それがりんごであることの意味は、それがりんごと呼ばれる何かであること以前に、それ自体であることを意味する。それがそれ自体であることの意味とは、それ自体が何らかのカテゴリーの中にあることを意味するのではないか。いくつものりんごがあり、それらすべては確かにりんごである。異なってはいても、同一の何かがすべてのりんごにはある。それが何であるかを人間が決定しようとすることがあるかもしれないが、完全にその定義を決定づけることはできないこともありうる。人間が定義しきれないからといって、それはりんごではないというのではない。そもそもそれがりんごであるかどうかが問われているのだろうか。何かが何かであるのは、それが言葉になるかどうかの話なのだろうか。言葉にならないからといっても、それがそのものであり、それ以外の何かではないというのは確かだ。言葉になるか、ならないか。ただそういった現象があるだけで、その意味は人間にとって意義深いかもしれないが、それぞれがすべてそのようにあるといった意味においては、言葉になることがあり、言葉にならないことがあるだけに過ぎないのではないか。言葉になることがあるのであり、言葉にならないことがあるのである。それはいずれにもそれ自体の意味がある。どちらがどうのというのではない。それゆえに、りんごがりんごであるかどうかには、何か大きな意味があるわけではない。単に存在しているものはそれ自体としてあるのであり、それを人間が何かしら定義しようとして不思議がっているのではないか。そのようにあるものがそのようにあるに過ぎないといった自然が真っ先にあり、そこに真実がある。言葉になったことだけに真実があるのではない。言葉にならないことにも、それが言葉にならないといった意味ではなく、それがそのようにあるとった意味において、それ自体の意味をすべてのうちになんら特別なことではない状況で世界に提示している。存在するのはまず世界だ。世界にとって万物はそのすべてが素の状況である。特殊か一般か。その区別は人間の視野のうちにならあるが、世界そのものからしたら、すべてが一般なのではないか。