その377

 認識可能なのは、存在の流れを断ち切ることで可能となっているとひとまず考えることができる。しかし、存在はその流れそれ自体であり、それを断ち切ることで、その認識とすることの意味とは何か。認識それ自体は情報として固定される。流れていない。存在そのものをリアルタイムで捉えようとするなら、それは流れていないといけないが、そうではない認識はなぜ認識として実在可能なのか。というか、認識とはそもそも何か。

 リアルタイム認識以外に、存在を構造的に捉えることで実在する認識がある。それは存在がいかなるシステムにあるか、その認識である。たとえば、りんごはりんごとしての構造にある。姿といってもいいのかもしれない。りんごの姿をしているからりんごなのかどうか、それは定かではないが、そもそもりんごがりんごであるかどうかを決めるのは何か。なぜりんごはりんごなのか。それがりんごだからりんごなのだろうか。りんごがりんごであるかどうかを決めるのは私たちではない。りんごそのものではないか。