その353

 何かそれがあること、それは有限であり、その限られた実在をもとに、それ自体が動く。いったい何のために動いているのか。あらゆる実在はその目的を持っているのか。人間は何かの目的を持って動くことがある。それを意識が行うことがある。意識がなければ、そこにただあるだけになるかもしれないが、意識をもつ存在は自らのことについていくらか認識を持っており、それが仮初なのか実質的なのか定かではないとしても、何らかの感慨を得た上で実在しているのが意識を持つ主体ではないか。最終的に何の意味があるのか、それは分からないような気がする。短期的には意味があり、それを目的に感じることがあるかもしれないが、そもそもにおいて、存在している物事がどうなればいいのか、それがはっきりとしない。情報として実在する人間は何かに対して良い側面と悪い側面をもつ。また、一概に決め付けられないのが良い悪いである。良いとは何か。何にとってか。悪いとは何か。何にとってか。

 良い悪いもはっきりと決めることのできない存在にとってはっきりとした目的があると考えることが妥当かどうか。もちろん勝ち負けの問題でもない。存在していればそれでいいのであれば、ひたすらに生存を追求する他はないが、はたしてそれでいいのだろうか。もっとも、生存してこそだとは思う反面、生存しないことにもまた意味がある。存在する側からして何かが存在しないことはそれだけで意味がある。その時、存在の持つ目的をはっきりと決めることができるだろうか。できるとするなら、その関係性にあると考えられないか。いかなる関係性にあればいいのか。そんな話ではないような気がする。