その363

 何かを知るためには、知らないことをいったん排除しなければ知り得ることができないのではないか。知ろうとしてその全体を追いかけていくなら、その終わりがない。終わりがないことをすべて知ることはできない。なぜ部分だけ知っても、それ自体として成立するのか。全体として成立している何かの部分だけを取り出して知ることは乱暴な気がする。それでも知ったことになる。それらすべては記号として知ったのではないか。実質的にどうか、それは知られていない。たとえば、ある液体がどんな成分でできているか、それを個別に知っていく。さまざまな記号におきかえ、それを知っている。実質的にそれらの記号がいかにあるか、その量などについてを知らなくとも、何かしら知っているといった感慨がある。