その361

 認識にないことが認識したことと関わっていることが常にある。そうしたとき、認識とは何か。形式か。どういった意味で認識が成立するのか。しているのか。ある全体としての部分を認識したとして、それはなぜ成立するのか。認識のうちになぜぴったりとハマる認識が実在するのか。人間がする認識の通りに世界があるのではない。世界がまずあって、それがどうなっているか。存在がそのようにあるというよりか、認識の側にある合理性、論理性の枠組みにはまり込んだときに、認識しようとする対象の全体がひとたびできあがることで、存在がそのようにあると考える。それは合理性それ自体の獲得を意味するのであり、存在はその限りではない。

 存在の自然は認識を超えてあるのではないか。ありのままを認識できない人間がそれでも世界を認識している側面があるのは、自らがもつ合理性がその原因ではないか。自然は合理的に出来上がっているのか定かではないが、認識されうる自然は合理的でしかないのかもしれない。それでは自然を知ったことにはならない。そんな感慨があるが、しかし、認識に収まりきらない自然のあり方をいかにして知ることが可能か。知り得ないことがあるのもまた自然とするしかないのか。