その357

 存在する限りの認識主体とは何か。しょせんは、人間の人間による認識により、その主体を見出すことになる。人間が考えることが万事ではないのはいうまでもない。万事のうちの一部が人間なのであり、その人間が行うことで発生する現象なのであり、それがまさか万事に相当するはずもない。

 認識においてこの世界に絶対複雑性なるものがあるのかどうか、その判断のために、すべての認識主体をそれとして捉えることをしない限り、絶対複雑性の存在について分析することはできない。そもそもにおいて認識主体をどこで区切り、その実在とするか、その判断が必要だが、それ自体がひどく哲学的な様相にある。どの個体からも一様の複雑さにある何か、そのような現象が実在するかどうか、それはまず個体をそれとして限定することにあるが、それ自体が人間が行った決定に過ぎない。もっとも、他の生命個体の認識のあり方が明らかにはなってくるだろうから、他の生命の立場にたった上で、認識を行っていくことがいくらかは可能になるだろうが、しかし、それもまた人間の眼差しがその根底にはある。どのようになったとしても、人間である以上、その頸木から逃れることはできない。もっというなれば、それぞれ各人のあり方をもとに行われる、それぞれの認識の結果においてそれぞれの真実がある。すべての認識を捉えたとすれば、そこでは絶対複雑性が明らかになってくるというよりか、すべての認識それ自体がカオスであり、絶対複雑性の様相を呈するのではないか。