その55

   りんごの内部は他の何かの外部である。他の何かの外部がりんごの内部であるとき、りんごの内部は、他の何かの絶対基底である。何かは絶対基底を存在するための領域として所有し、そのものの内部のみならず外部もまた欠くことのできない実在として抱え込んでいる。何かの絶対基底はまた、部分的に共有される実在である。何かにとって絶対的なのは、その領域である。領域は他との共有的実在である。動的な共有的実在の領域は、何かそれ自体として確固たる状況にあるのではない。そのものとして入れ替わり続ける状況にある共有的実在は、何かにとっての共有的実在でありつつも、同時に、何かにとっての共有的実在であり、一個のりんごはこうした共有性により成立し、交換的実在でもある。

   一個の主としてのりんごがあるとき、そのものであることは他との共有性により成立し、かつ、他との交換性により成立する。りんごが一個あることを他の何かと交換することでりんごであることが継続可能となっているのではないか。りんごがりんごでありつづけるためには、他の何かと交換することが必要である。りんごであるための内的な循環を保持するために、入れ替える必要がある。他との交換は他の主体を成立するためでもある。りんごと他は同時に、交換的であることで成立する。

   りんご以外の何かがりんごとの交換のうえで成立するとき、りんごはりんご以外の何かである。りんごがりんご以外の何かであるとき、りんごはりんごでないことを含んだ実在である。りんごでない部分がりんごにあるとき、りんごとは純粋な状況にない。純粋なりんごとは何か。存在しないのであれば、純粋なりんごは定義しようがない。りんごをりんごたらしめているのは何か。りんごが存在するために必要なものごとはりんごではない何かとの関わりにあるのだから、非りんごはそのままりんごの内部である。

   りんごがりんごの領域でできあがっていると考えるとき、りんごとはりんごの領域のことである。りんごの存在と関わりをもたない部分が運動にあるとき、いつかりんごの領域となるか、ならないか。りんごの領域の運動は、運動する存在との関わりにあり、領域外も領域内も刻々と移ろうのだから、一個の領域を定めることはできない。りんごの領域でなかった存在がりんごの領域になり、りんごの領域であった存在がりんごの領域でなくなると言ったとき、存在を止めたうえで把握したことになる。りんごの領域はすでに別の領域にある。存在はすべてが運動の状況にあるのだから、領域は非領域を含む。存在のあり様は私たちの認識内にすべてが出揃っているのではない。可能性として認識されていない存在がある。知っている存在であっても運動する存在に対して、認識はすでに破綻しているのだから、私たちは固定した情報としてのりんごを知ることはない。運動するりんごは複雑さとともにある。私たちの認識の複雑性とともに実質的な複雑さがある。複雑さとはなにか。そのものそれ自体のフュシスは、複雑さとともにあるのではないのではないか。あるがままある状況は端的ではないか。私たちが存在をそのまま端的に把握できないことが存在を認識上で複雑にしているだけで、実質的には存在はそのままの状況で、あるがまま、疑いの一切と関わりをもたない状況にある。