その60

    私たちは私たちをまっとうし、私たちの主体から構築された日々を生きている。生きるとは私たちを生きることである。シマウマはシマウマをまっとうすることで生きている。シマウマと関わりのある部分が私たちにとってはまったく関係のない部分として存在する可能性がある。私たちはシマウマと関係する部分を持つと同時に無関係の部分をもつ。関係性を把握する行為において無関係性が生じる。関係のある部分があって、関係のない部分があるのはいたって自然。あるがままある存在において関わり合いと関わり合いのなさがある。私たちとシマウマが完全なる関わり合いを生むのであれば、私たちがシマウマにならないといけないうえに、個別に考えていかないといけない。私たちとは個別の私の総体であるし、シマウマもまた個別のシマウマの総体であるとしたとき、私たちとシマウマの間にある関係性は、個別の関係性の総体であり、かつ、その運動である。関係のあったことが関係を失うことが起こり、関係のなかったことが関係のある状況を獲得することがある。関係がある、関係がない。とただそういった断片が存在するのではない。関わり合いの状況が変容しなが存在するのが私たちとシマウマの間に存在するコトである。存在するのは何かそれ自体である以前にそのことの生み出す関係性からくるコトである。