その68

 一個のりんごは動いている。一個である事実は動かない。動かない事実があるなかで動いていることの意味とは何か。それがりんごで一個である事実が不動であり、一定の時間運動をしないとき、りんご一個の存在の語ることとはなにか。完全に停止した状況があると考えられるが、しかし、テーブルの上に一個のりんごがあると認識するのは私たちの認識の方法により生み出された結果である。存在のすべてのうちにおいてフレームを与えることで、テーブルの上といった領域が設定される。テーブルの上といった領域が設定されることで一個のりんごがあると実在化される。他の領域を合わせれば、一個ではないかもしれないし、どこまで領域があるか、最終的にそれはわからない。

 存在の存在する領域がどこまであるかわからないのは、果てがあるのかどうかすらもわからないことを意味する。無限の広がりが存在すると考えるとき、無限の運動があると考えることで、無限の広がりがあると考えることができる。運動が止まらないといった意味での無限の運動をもつ存在の領域には果てがあって、その運動により拡張されているか、収縮しているか、拡張と収縮をランダムに繰り返しているか、拡張と収縮といった個別の運動ではない、カオス的な運動をしているのか。それはこの存在の広がりの果てまでたどり着かないことには、明らかとならない。

 存在の果てが止まっているとは考え難い。動いている果てがどうなっているのか。果ての向こうがそれでもあるならそれは果てではない。果てか否かの判断がどうやってもつかないとき、私たちは存在について知り尽くすことが永遠にできない。永遠に明らかにならないことがある事実もって、永遠の実在とすることはできる。もはや存在し得ない事象であっても、それが起こったこと、そしてそれが私たちにとって明らかでないことをもってして、その喪失が永遠に実在すると考えられる。存在が永遠にあることを永遠というばかりではない。私たちの認識が永遠に所持できない事実の存在を、私たちの実存をもとに考えていったとき、永遠の不在が事実存在すると考えられる。私たちは私たちの知らないことを含んだ存在である。関係して存在するにも関わらず、知らない事実がある現象を存在は持つ。その意味がはっきりと存在することは、私たちではなく、存在がいかにあるかといった意味において、存在する。私たちが実在することで私たちの届くことのない存在が実在する。私たちがいなければ、存在はただ存在するということも可能である。認識主体が存在することで、存在のいかなるかが語られるが、原初的には存在はそのようにあるのみで、そのいかなるかについて思考されることではない。