その73

 領域があると考えるのは、私たちが認識を行うことが原因に考えられる。領域のない状況を私たちは認識可能なのか。運動する状況をそのまま領域なく捉えることはできるのか。私たちが認識をすることで領域が必然的に設定されるのではないか。領域を設定するために認識するのではない。何かを知ろうとする自然な営みのなかで、領域ができあがる。私たちの認識は存在の運動のある部分を取り出して、止まったものとして認識となる。必然的にできあがる領域は、認識にとっての何か。領域の外も認識対象であるとき、認識は留まってはならない。存在を認識するとき、存在の運動をそのまま認識しないといけないのではないか。いっこのりんごのすべてを知るために認識しないといけないことはりんごの存在を成立させている存在それらすべての運動である。領域は設定可能なのか。その領域を知ればりんごの事実をすべて知ったことになるのか。運動する領域がりんごの事実のすべてをカバーすることはあり得るのか。