その62

    運動するりんごの領域は運動する。運動する何かを捉えることは原理的に不可能でしかない。何らかの把握はできるが、その全体には及ばない。何かの全体はフュシス的には実在するが、私たちの認識上には実在しない。ここに断絶がある。存在の実質と私たちの認識の実質には断絶がある。私たちは何かを知っていると感じているが、そのものの全体ではない。そのものは本来であれば全体として存在するが、その全体を知り得ないのだから、私たちが何かを知っているというのは断片的なのだ。全体でなければ、断片でしかない。

   断片を知っても、全体が理解されたことにはならないのは言うまでもなく、かりに全体の把握が行われるとしても、行われるなら、そのものの現象をリアルタイムで捉えないといけない。その物それ自体である必要があるが、私たちの認識がその物それ自体になることができるはずはない。数値で知っても、質感までは伝わってこない。私たちが把握しようとするのは、そのもののあるがままのフュシスであるが、フュシスについては一切知らないのが私たちではないか。知るべきなのがフィシスであるとき、私たちがフィシスについてはまったく知り得ないのであれば、私たちはまったく何も知っていないことになるが、それが言い過ぎであるのは、私たちは何かについて少しは知り得ているからである。私たちにとって知るとは断片を知ることであるが、知るとは本来では全体について知ることであるなら、私たちの理解はひどく心許ないものであると認識すべきではないか。