その63

 認識が不完全でしかないとき、私たちの知っていることがどういった状況にあるのか。一個のりんごの部分を知っている。りんごの実存的な領域の全把握はできない。りんごの実存的領域がどこまでの広がりか、それは定かではない。変動するから捉えきれないといった意味とともに、かりに完全停止した状況のりんごがあっても、その実存的領域がどこまでか、はっきりと定めることはできないのではないか。存在の果てまでもがりんごの実存的領域ではないとき、一個のりんごの実存性を表現する領域があるはずだ。あるにはある。フュシスとしては明確にある。私たちの認識のうえにはない。

 事実は明確にあるものの、それを知ることはできないまま、何らかの認識をしている。認識と事実に乖離があるとき、事実をもとにした認識であっても、事実と認識には断絶があって然るべきではないか。フュシスとしての事実がまずある。そのままを理解できない私たちは非フュシス的な事実を認識として所有するが、私たちの思う事実が、存在本来のあり様それ自体ではないとき、私たちは存在について考えを持っているに過ぎないのではないか。本来であれば、考えるもなにも関係なく、ただそれが事実としてあるはずだ。