その56

   私たちは認識しようとして、存在について考える。考えるとは存在を解体し、整理することを意味する。どうなっているのか。そのすべてがすべてである確証は永遠に持てないのではないか。私たちは認識するがその完全性は対象について、どこまでの分量であるか。完全性とは完全でなければらないが、動的な事物の完全性は把握しきれない。数式により捉えられた完全性は部分的な状況についてである。ある対象の全体性は動的であり、私たちの認識にとってはつねに不完全でしかない。事物を止めて取り出して完全に捕らえることが可能なら、私たちはある事物のある瞬間の完全性を知ることのできる可能性をもち、その連続を可能とするなら、ある事物の完全性を獲得することができるかもしれない。いかに止めるか。数にすれば止まった数となるが、数値の運動が止まったとき、存在も完全に止まってしまい、存在することができない。エネルギーである存在は動き続けることで存続する。内的なエネルギーがゼロとなったとき、そこにあるのは無でしかない。

    エネルギーが姿かたちを変えて存在している。エネルギーに姿やかたちを与えているのは何か。何が石を石の姿にしているのか。石であるとは何か。内発的実在と外発的集合的実在がある。内側から湧き出たすえの姿なのか、寄せ集めでできあがった姿なのか。個別に分かれた存在は、実存的な差異をもつ。個物の何もが内発的ではない。ほかでもないそれそのものが外部の寄せ集めにより構築されたとき、それは内発的実在とまったく別種の実在であると考えられる。外部の寄せ集めでできあがったとしても、外部である状況においてすでに内部をはらむ。なんらかの要素が存在内部にはある。内部性を抱え込んだ外部が寄り集まって、集合的内部を構築するとき、集合的内部がそのものの要素の全てとなるが、その変容もまたそのものの実存となる。寄せ集めの結果、そのままそのものの内部となる場合とそのものの痕跡が消え、姿の変容した内部もある。内部が外発的であっても、内的な循環により変容する内部は内部特有の処理を行われた結果の部分をもつ。